日本のとんかつ屋で初めて「ご飯・味噌汁・キャベツ、おかわり自由」の文字を見たとき、僕は裏のからくりを探そうとした。どこかに小さな文字で「※二杯目以降は別料金」と書かれているのではないか、と。
イタリアにおいて、皿の上の料理は「一回限りの完成された契約」だ。パン籠が出てくれば席料(コペルト)にしっかり計上され、パスタのソースが絶品だからと麺のおかわりを頼めば、シェフへの侮辱かただの非常識とみなされて二皿分の請求が届く。水の一滴、エスプレッソの一杯に至るまで、価値あるものには対価を払うのがあちらの絶対原則だ。
だからこそ、日本の定食屋のシステムは異次元に見えた。メインの豚カツという「主役」は動かないのに、それを取り巻く白米、汁物、野菜という「舞台装置」が無制限に再生成される。
観察して腑に落ちたのは、これが単なる安売り競争ではなく、日本特有の「主食への絶対的信頼」から生まれている点だ。イタリア料理の主役はソースや具材であり、パスタやパンはその媒体にすぎない。しかし日本の食卓では、すべての美味は「いかに白米を美味しく食べるか」のために奉仕している。店側にとってご飯のおかわりを勧めることは、「うちの料理は米が進むだろう」という誇りの表明なのだ。
さらにイタリア人を唸らせるのは、客側の節度と店側の空気感だ。原価を気にせず満腹になるまで米を頬張る客と、茶碗を受け取りながら「たくさん食べてくれて嬉しい」とばかりに炊飯器を開ける店員。
そこには損得を超えた、ある種の暗黙の共犯関係が成立している。
食の完成度をミリ単位で主張するイタリアの美学も愛おしいが、食べる人間の欲望と胃袋のサイズに寄り添い、際限なく懐を開く日本の「おかわり」という優しさ。あの湯気立つおひつの前に立つたび、
僕は日本の日常の豊かさに心地よく降伏してしまうのだ。
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