3月、沖縄県宮古島でちょっとした騒動が巻き起こっていた。宮古食肉センターが3月18日以降、食肉処理ができない状態に陥っていたという問題だ。現在は沖縄県の食肉加工センターで牛肉の加工ができるように他の職員に研修をさせたことで、再開のめども立っているというが、騒動当時はネット上でも大きな話題となっていた。
騒動の理由は、同センターで唯一、大型家畜の食肉処理ができた嘱託職員の男性との契約更新をめぐるトラブルだ。契約更新のタイミングで、同センターがこれまで支払ってきた賞与を支払わない方針を男性に示したところ、男性はそれを不服として更新しなかったという。そこで今回は、フリーライターの寺尾淳氏に、今回の問題がなぜ起きてしまったのか、その根底にあるという嘱託職員に対する軽視の問題点などを分析してもらった。
■嘱託職員とは?
まず、嘱託職員とはどういった雇用形態を指すのか。
「嘱託職員というのは法律で定められた雇用形態ではなく、正規雇用の社員とは違い、雇用期間を定めた有期の臨時雇用社員を指すものです。そのため契約社員やパート・アルバイトの従業員も嘱託職員と呼んでいる企業もありますね。ただ、一般的には、正社員として定年まで勤めた後に有期で再雇用される職員のことを指す場合が多いです」(寺尾氏)
今まで払っていた賞与を認めないという雇用側の対応は、正当性のあるものなのだろうか。
「一般的に、労働の対価である給与は支給が義務づけられていますが、賞与や一時金は退職金や通勤手当などと同じように、支給が義務づけられているわけではありません。しかし、労働協約や就業規則などで明確に定められた支給条件に従ってこれらが支払われる場合は、労働の対価として扱われることもあるようで、過去には賞与不払いで裁判になって下級審では雇用者側が敗訴した事例もあるようです」(同)
■宮古島の歴史も絡む複雑な背景とは
今回の騒動は、宮古島という土地柄が絡んだ特殊な事情も関係しているようだ。
「宮古島で生産されている宮古牛を取り巻く問題について知る必要があるでしょう。離島である宮古島は、本土や沖縄本島と異なった食肉加工事情があります。というのも、17世紀に薩摩藩の侵攻を受けて以後、農耕の立て直しに必要な牛や馬を食べないようにというお達しが、当時の琉球王国で出された過去があるのです。そのため離島である宮古島はいまだに牛肉食より豚肉食が中心になっています。
そんな宮古島ですが、あるときから食用牛肉を育てるようになります。それは、昭和の終わり頃に当時の農林水産省が畜産振興政策として、国産の食肉牛の飼育を推し進めたことがきっかけとなり、宮古島でも食用牛を育てるようになったからです。ただ、これまで豚肉を中心とした食文化だったため、宮古島は牛の食肉加工技術が未発達で、そのため子牛まで宮古島で育て、そこから成牛までの飼育や加工は沖縄本島で行うという流れが定着したのです。
しかし、その子牛の評判がよかったため、宮古島の畜産家たちは平成の頃に牛をブランド化して食肉加工まで行うことで、観光客にブランド牛を提供することを思いつきます。こうした経緯で、肉牛生産で重要度が増したのが今回話題の宮古食肉センターなのです」(同)
そんな宮古食肉センターで食用肉の加工を担っていたのが嘱託職員だった。
「人件費が安く済むという理由もあるでしょうが、豚肉文化が中心だったということもあり、食用牛の加工技術を持った人が島内にほとんどおらず、JA沖縄経由で食肉加工の資格を持った嘱託職員に来てもらっていたのだと思います。そのため、嘱託職員に頼りすぎる形で、後進育成を怠っていた側面も強かったのでしょう。
そして、悲劇はコロナ禍によってもたらされます。観光客が減って収益が下がったため、食肉センターは牛肉の加工を一手に担っていた嘱託職員に、これまで払っていた賞与を契約更新時にカットすることを提案。嘱託職員はこれに反発して契約更新を拒否したわけです。そして現在、コロナ禍が落ち着きを見せ観光客が戻り始めましたが、肝心の宮古牛を提供することができなくなってしまいました」(同)
<中略>
「今回の宮古島の例は、嘱託職員の扱いを軽視することがどれだけ大きな打撃を与えるかを知らしめた非常にいい例だと思います。身銭を切ってでも賞与を払っておけば、長期的には食肉センター側にも十分な益はあったはずです。それにもかかわらず賞与を払わなかったのは、嘱託職員への軽視があったからではないでしょうか。(以下ソース)
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https://nordot.app/1030385871462744238
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