あれは誰の文章だったかなぁ、戦中の集団疎開は都会暮らしの者共にとっては屈辱以外の何物でもなかった、というのを読んだ記憶がある。普段から下に見ていた田舎者に疎まれながら食料を恵んで貰わねばならなかった経験が、戦後致命的に都会と田舎を断絶した、というの。
— 中村甄ノ丞あるある早くいいたい (@ms06r1a) May 25, 2025
日本の都市部では自営業者の世帯を中心に労働力の中心となるべき成人男性が戦地に赴いている間、子供は重要な労働力として家計の助けとなっている世帯も多く、疎開させたくても出来ない家庭があった。集団疎開に際しては保護者から疎開免除の嘆願書が提出された例も存在している。
1944年、連合国軍による本土空襲が始まった(北九州の八幡空襲)直後、1944年8月4日、東京都から学童疎開第一陣が出発し、7月の緊急閣議で急遽疎開決定した沖縄県の学童は8月中旬、大阪市からは8月末に移動を始めた。以上の地域以外にも、横浜市、川崎市、名古屋市、尼崎市、神戸市と今の北九州市(当時は門司、小倉、戸畑、若松、八幡の各市)から周辺県への疎開が9月末までに集中的に行われた。疎開児童総数は40万人以上だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8E%E9%96%8B
