1:名無しさん




この石仏が全国的に知られるようになったきっかけは、1974年(昭和49年)に中村龍雄、地域紙「湖国新聞」編集長・市川一雄らが、諏訪大社の視察に訪れた岡本太郎を現地に案内したことにある。そこで同石仏を鑑賞した岡本が絶賛し、全国紙のコラムなどに掲載した。さらに、上諏訪町(現・諏訪市)出身の小説家・新田次郎もこれに着目し、同石仏はイースター島の石人の頭部が日本へもたらされたものとする大胆な想定を基にして小説『万治の石仏』を著している。これらにより、「万治の石仏」の名称が定着し、知名度も上昇して全国的な観光名所となっていく。

これ以降、「万治の石仏」の名称を産業財産権として利用する動きも活性化する。市川一雄と交友関係にあり、下諏訪町で製菓業と学習塾を営む傍ら、当時湖国新聞でコラムを連載していた矢ヶ崎孫次によって、「万治の石仏」を菓子類の商品名として使用するための商標登録出願(1975年9月6日、区分:菓子、パン)がなされている。続いて、別の出願人から他区分(調味料、穀物の加工品、べんとう)での出願も行われている。

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