ウクライナの戦火を逃れてポーランドに避難してきたオルガ・ルミアンセバさん(27)は14日、2週間ぶりに故郷を見ようとポーランド側から国境線の柵のすぐそばまで来た。林や草原が広がるのどかな景色で、柵の向こうから犬の鳴き声が聞こえてくる。「こんなに近いのに、今はカナダより遠くに感じます」。そう語ると、目から涙があふれてきた。「戦争中の国の空はどんよりしていると思い込んでいました。でも空は青く美しいままです」
ソ連崩壊3年後の1994年、ウクライナ南部クリミア半島で生まれた。父はロシア・シベリア、母はウクライナ南部オデッサの出身で高校卒業までは家でも学校でもロシア語を使っていた。2012年に首都キエフの大学に進学した時は「ウクライナ語がうまく話せませんでした」。友達との交流を通じて次第に上達した。
14年、在学中に起きたロシアによるクリミア併合が家族の分岐点になった。クリミアではロシアへの同化政策が進み、キエフからの直通列車は廃止。検問所が設けられ、年3、4回していた帰省も気軽にはできなくなった。父は少しは理解できていたウクライナ語を忘れた。そのままキエフで就職、結婚しウクライナ人としての意識が高まる自分とは正反対だった。
キエフにロシアが侵攻してくるとは想像もしなかった。2月24日朝、突然、空襲警報のサイレンが鳴った。その後、警報の度に自宅アパートから近所の地下にある小劇場に避難した。「爆弾が頭上を飛び、砲撃の音におびえて寝られない。外から見る戦争と、現場で経験する戦争は全く違います」
翌25日、友人が「今から車で避難する。席が空いているので、乗りたければ30分以内に来てほしい」と電話をかけてきた。夫と別れたくなかったが、夫は「君は安全な場所にいてほしい」と後を押した。急いで荷物をまとめた。ポーランドとの国境検問所は大渋滞で、通過に三日三晩かかった。ただ、ようやく国境を越えてこみ上げてきたのは安堵(あんど)ではなく、「罪悪感」だった。「多くの人が国を守るために残っている。子供もいない私がなぜ離れてしまったのか」と自分を責めた。
実家の両親はロシアのメディアを通じて戦況を知り、「ロシアがウクライナを救うために介入している」と信じている。娘に「おまえは間違っている。ウクライナ政府が言っていることはすべてウソだ」と、携帯電話に頻繁にロシア発のニュースを転送してくる。「あまりに不快で最後まで読めません」。反論はせずに放置している。「家族の関係にはさまざまな要素があります。政治的な見解の違いだけで関係を破綻させたくはありません」
今はポーランド南部クラクフの知人宅に身を寄せる。少しでも母国の役に立ちたいと、避難してきた友人らとウクライナに子供用品や医療品など支援物資を送る活動をしている。夫もキエフで支援物資を配布するボランティアだ。「私には今、戦車を止めることはできません。ただ私が安全な場所にいれば、夫も気兼ねなくキエフで活動できます」
いつか必ずウクライナに帰る。「廃虚のままにはさせません。戦争前よりももっと美しく、輝く国をつくるために全力を尽くします」【コルチョバ(ポーランド東部)で平野光芳】
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https://mainichi.jp/articles/20220321/k00/00m/030/001000c
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