「想像以上にひどい」。1日午後4時10分に発生した石川県能登半島を震源とする地震。倒壊家屋の被災者を救助するために現地に派遣された滋賀県緊急消防援助隊県大隊の小田浩文大隊長(58)=大津市消防局警防課長=は3日朝、現場を前にしてつぶやいた。限られた人員や資機材で巨大災害に立ち向かった小田さんが感じたこととは――。【飯塚りりん】
即日出動も…
県緊急消防援助隊は、石川県の近隣県で構成される第1出動都道府県大隊として迅速な出動が求められていたため、滋賀県内の各消防本部からの計38隊で編成された132人が1日午後6時48分、大津市消防局から石川県珠洲市に向けて出動した。しかし、被災地に着くまでの道のりは長かった。
集結場所の同県消防学校(金沢市)までは陸路で到着したが、能登半島に入ると道路の陥没や隆起が激しく、電線も垂れ下がっていたため、陸路でのアクセスを断念。一部の部隊が海上自衛隊の艦船で金沢港から乗船したが、津波の影響で倒木があり、危険性が高かったため、このルートも断念した。ヘリ輸送を待って海自艦内で一夜を明かした。小田さんによると、隊員たちは現場に到着できないというジレンマを抱え、「早く被災者に手を差し伸べ、一人でも多くの人を救出したい」という思いを募らせていたという。
珠洲市の宝立町鵜飼地区に入り、倒壊した家屋に取り残された被災者の捜索を始められたのは3日の午前9時ごろだった。2階建て家屋の1階部分は潰され、電柱や家屋は津波が流れた方向に倒れていた。県外ナンバーの車も多く、子供たちが帰省していた様子もうかがえた。深刻な現場を前に「もっと早く着きたかった」という思いもちらついたが、72時間以内であれば生存者を救える可能性も高く、迅速にできるだけ広い範囲を捜索することを徹底した。現場に重機は到着しておらず、本格的な機器を積んだ消防車もない状況で、のこぎりなどを使って活動を進めた。
特に困難を極めたのが、どこに何人の被災者がいるのか、という情報を集めることだった。帰省してきた人が多かったことや、住民基本台帳と居住状況が整合しないケースもあり、地元の消防団をはじめとした近隣住民が知っている情報を手がかりに捜索した。
発見できたが
捜索は日付が変わるまで続き、同隊は15件の捜索にあたったが、救出できたのは高齢者5人で、全員亡くなっていた。また、避難所などで体調が悪化した人の救急搬送もした。
道具や時間さえあれば救出・救助できた現場も数多くあったといい、救出を見守る家族らに「現状で持てる力で出来ることはここまでで、申し訳ない」と伝えると、「ここまでやってもらってありがとうございます」、「救出できる人を先に救出してほしい」との言葉をかけてもらったという。涙を流して握手を求める被災者もいた。小田さんは「人間の心の温かさを感じるとともに、最後まで助けることができなかったことにやるせなさを感じ、言葉が出なかった」と振り返る。
小田さんら第1次隊は、現場で受け取ったねぎらいの言葉や被災者の思いを第2次隊の計39隊133人に引き継ぎ、4日の午後7時ごろに帰隊。その後、第2次、第3次隊が重機を使うなどして再捜索にあたっている。
小田さんが珠洲市での活動から感じたのが、顔の見える関係の大切さだ。現場にたどり着くまでや情報収集で他機関との連携の大切さを痛感し、「日ごろから警察、自衛隊、地元の消防団などと密接な関係をつくり、情報を共有する中で、災害が起きた際に精度の高い情報をつかめるようにしたい」と思いを定めたという。更に、近隣住民から被災者の情報を入手できたことを踏まえ、「迅速な救出にもつながるので、日ごろから地域でのつながりを大切に生活してほしい」と、県民に呼び掛けた。
https://mainichi.jp/articles/20240108/k00/00m/040/004000c
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