1:名無しさん


天台宗総本山・比叡山延暦寺(大津市)は30日、根本中堂にある複数の仏像の内部から、鎌倉時代後期の年代などが記された墨書が見つかったと発表した。根本中堂は織田信長の焼き打ち(1571年)で全焼。江戸時代に再建され、仏像も後に作り直されたと考えられてきたが、焼き打ちを逃れていたことが判明した。

2016年度からの根本中堂の大改修に合わせ、「十二神将」など仏像14体を初めて解体修理した。その結果、8体の内部に「正慶元年」(1332年)の記載や、同時代の僧侶「栄賢」、仏師「頼弁」などの名前が記されていた。

十二神将は、延暦寺と縁が深い 聖衆来迎寺しょうじゅらいこうじ (同市)の古文書に、1447年に京都の寺から延暦寺へ移したとの記述があるが、焼き打ちで焼失したと思われてきた。今回の墨書により、延暦寺は、仏像が攻撃前に持ち出され、災禍を免れたとみている。

栄賢と頼弁が造立に関わったと伝わる聖衆来迎寺の「日光・月光両 菩薩ぼさつ 立像」は重要文化財で、今後、十二神将の価値が見直される可能性がある。延暦寺は「焼き打ちを逃れた像は貴重。新たな来歴がわかり、大変喜ばしい」としている。十二神将像などは7月23日~9月4日、大津市歴史博物館で展示される。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220701-OYT1T50090/

 

8:名無しさん


のぶのぶ「冤罪じゃん」

 

9:名無しさん


良いこと聞いたニダ

 

10:名無しさん


巷間言われてるような焼き討ちはなかった。
修繕が必要で燃やした説と、焼き討ちするぞと脅して事前に大部分を退避させてた説があるね。

 

12:名無しさん


信心深い信長のことだから
焼き討ちすっから貴重品は持ち出しとくようにぐらいの通知はしたんじゃねえかな

 

13:名無しさん


持ち出せる余裕があったなら信長の方の焼き討ちは巷間言われるほどではなかったのかな
義教の方はしらん

 

23:名無しさん


そこまで大規模な焼き討ちでは無かったのではないか?

 

25:名無しさん


比叡山って拝観料をボッているよな。
東西の本願寺や知恩院はタダなのに。

 

26:名無しさん


ノッブ
500年も俺のせいにしてて何か一言ないの

 

31:名無しさん


解体してみないと分からんものなんだな

 

33:名無しさん


元々焼き討ち予告してたし前もって秀吉の手引きで避難してたから死者も出てないって話じゃん
焼けた地層から全く人骨が見つかってないのがその根拠らしいけど

 

34:名無しさん


東寺もそうだけど
仏像だけは死守しようと周辺住人が素早く移動して隠すらしいね

 

49:名無しさん


光秀→信長に焼き討ちを思い留まるようにと最後まで抵抗して叱責される→焼き討ちでは真面目に誰よりも積極的に焼く
秀吉→信長を全肯定で褒め称える→焼き討ちではもたもたしてあまり焼かずに坊主までこっそりと逃がす

 

51:名無しさん


むしろ比叡山の歴史を知るからこそ比叡山に行きたくなる
園城寺との熱いバトルに襲撃される清水寺
全ての始まりは荘園制度にあるという面白味

 

62:名無しさん


恐らく…ノブ殺した男、羽柴秀吉
信じる、信じない、構わぬ

 

70:名無しさん

>>62
秀吉光秀共謀説が面白いな
秀吉は信長を誘い出す役を買って、光秀に信長を討たせて、その後は光秀の下につく事を約束する
光秀としては当然(そんな事を言って自分が信長の敵討ちをして後継者に成り代わるつもりでは)と疑う
その疑いを晴らすのが、物理的な距離
駆け付けるなど不可能な距離(および背後を討たれる危険がある戦況)なのだから、そんな騙し討ちは不可能だと
ところが「不可能だ」と思わせる事こそが秀吉の策略で、緻密な計算で不可能ではないことを既にシミュレーション済みだったというね


76:名無しさん


信長優しい
見直したわ

 

64:名無しさん


昔比叡山行った時は、境内の案内に焼き討ちの話があって真面目に第六天魔王信長により、とか書いてあって大笑いしてしまった。

お前らの生臭っぷり棚に上げて恨み残しまくりとか本当に仏教の修行してんのかよと

 

71:名無しさん

>>64
怨敵とまでいってた気がするw


78:名無しさん


元々あった仏像が、江戸時代の再建と思われてきたのが、実は鎌倉時代の創建当初からのものと判明したってこと?

しかしそこまで年代が違うなら、さすがに外見から分かりそうなものだけど。
観光客を呼び込もうと、大河のタイミングでぶっ込んできたってところかな。

 

68:名無しさん


信長は良いことも悪いことも誇張されて伝わってるからな