こういうの聞くと思い出すのが、戦後の食糧不足のとき、農村まで出向いて、物々交換で米やらイモやら求めた都市住人に、足元を見て尊大に接したという農家たちの話なのだが・・・ https://t.co/QWRsD4r0iV
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
太平洋戦争が始まった1941年、榎並さんは10歳。食べ盛りの子ども時代、食糧不足はつらい記憶です。
コメを手に入れるため、榎並さんのお母さんは自分の着物を持って農家に物々交換に行きました。呉服店から嫁いだので絹製のきれいな着物ばかりです。しかし、農家では畑仕事で着る木綿製の方が求められ、断られることもありました。「片っ端から頭を下げて回っていました」と榎並さんは顔をしかめます。
野草を摘んで炒め物やおひたしにして食べたこともありました。榎並さんの両親は子どもたちに食べさせようと自分たちの食事は減らしていたそうです。
荻原さんは「私はご飯をおかわりすることが多いので、大変だったと思います」と話し、当時の暮らしの厳しさを想像しました。そんな暮らしの中での楽しみやうれしかったことも聞きました。
https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/2534
曰く「母の形見の着物を、断腸の思いで持ち込んだのに、わずかばかりの米と細いイモだけ渡され、こんな情けない思いをするとは思わなかった」的な証言がたまにあるのだが、どうも実態はだいぶ違うようでねw
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
「いきなりやってきて、必要もない着物や骨董品と食い物を交換してくれと迫られ、こっちも余裕がないがとにかくしつこかったので、やむなくそこそこの量を渡したら、あとになって”屈辱だ”とか言ってやがる」って、農家側の声もあったそうでね。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
「しかもあんとき渡された、”母の形見”とやらの着物、あとになって調べたら二束三文の見栄えだけいい安物で、むしろ騙されたのはこっちなんだ!」みたいなのもかなり多かったそうでな。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
まぁ昔は今よりも差別偏見が酷かったので、ぶっちゃけ都市住人は農村住人を見下していたともあったのだろうと、そういう相手にへりくだらなければならなかったというだけで、「負の歴史」になってしまうのでは、と。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
そしてたいてい、歴史の記録者は彼らなので、自分たちを被害者として記すのだから、「そういうこと」になったのかもねと。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
昔、郊外の街の、先祖代々農家やってる爺さんと話してさ、「ウチの蔵に、なんかよくわからない骨董品たくさんあってさ」と。「でもほとんど偽物だったんだよな~」と。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
「ウチの親父、優しい人だったし、無理して食い物と交換してたけど、そもそも断ると、なにされるかわからないとこもあったからなぁ、家や畑や家族になんかあったら怖かったしなぁ」と、いろいろ大変だったのねぇって話よ。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
これ実は形を変えて今も繰り返されているのだけど、そもそも自家消費分以外は秋の時点で売ってしまうのです
— Masamune 🖖 (@Masa0517) June 5, 2025
米作ってるからって、倉庫に米が満杯では無いんよなぁ
保管費用もタダではないでしょうしな。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
自家消費を除けば、せいぜい近所知人縁者にお裾分けするくらいがせいぜいでしょうしねぇ。
しかも昭和20年は凶作で「ただでさえ少ない米を使い道のない布切れと交換させられた」のが当時の農家な訳で。
— 雨宮薫@コントラ·ムンディ (@kumpoodoo) June 5, 2025
当時は流通網も今より発展してませんでしたからねぇ。ともすりゃ農家で買いたたき、都会で高く売るみたいなのもいたでしょうな。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
なんでも鑑定団を見てると、昔コメの代わりに置いていった掛け軸みたいなのが、よく出てくるけど、ほとんどニセモンだもんな
— 影咲シオリ@小説系Vtuber (@ShiworiKagesaki) June 5, 2025
父に「いざってときはこれを売ればまとまった金になる」と言われたが、やはり二束三文で、依頼者の息子さんとかもどっか「やっぱりなぁ」って顔になるのは在る在るですなw
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
もう一つ言うと
— ラーメン大魔王 (@VI38DHv6Y0KVoM8) June 5, 2025
この時、日本国民を食わせる 責任は誰にあったかというと
GHQです
その時の支援物資の小麦の使い先として、学校給食でパンが作られるようになったとか・・・
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
ソレが本当に価値があるものなら、換金してから「金を持って来い」って話になるもんな…
— ALTAIR-68090 (@A68090) June 5, 2025
まぁ自国通貨の価値がクソ下がってた時代ですからね。
— SOW@ (@sow_LIBRA11) June 5, 2025
崩壊前のソ連モスクワも、国営マーケットの棚はガラガラ、外国人向けの外貨専用スーパーは溢れんばかりだったのは知られた話です。
まぁその話すると今まで「田舎民マジ底辺www」みたいな事して来た都会派とかもあったのでどっちもどっちとも言えたり…
— 葉隠小太郎 (@GDxh8kRnkN23413) June 5, 2025
(後は、その振袖ばかり渡されて辟易した話も聞いてるのでね…)
うちのばあちゃんが言ってましたが、着物なんていらないので断ってたけど、子ども連れのお母さんは流石に不憫で何も貰わず食わせてやったとか。
— kos (@ham_kos) June 5, 2025
地方には目利きができるやつもいないだろうから、と持ち込んだ輩も多そうと思わされる話でした
— 仁徳 (@nintoku_2014) June 5, 2025
こういうのも戦争の話として語り継がなければならないのだな、と改めて思うばかりです
まぁ…そんなだから
— hetarenger (@hetarenger1973) June 5, 2025
昭和50年代でも街から来て
アテもなくブラブラしてる輩は
警戒の対象だったのよね…
トラブルメーカー率高いから
・世界大戦降伏直後という極限状態
— ベナプルズ (@xyGqrs5BaQ66953) June 5, 2025
・飯=いつでも全員必要で不足してる消耗消尽する品
・着物など=そんなの着れるような状況?
平和時なら質に入れて値段が付くやつでも
終戦直後はつかないというだけのお話