30年前の今朝、いつもは朝の平和な救急外来に突然溢れた救急患者は、誰もが縮瞳していた。それが始まり。毒ガスかという情報は早くからあった。現場の混乱の中に前触れなく送りつけられてきた信州大学からのファックスが、有機リン剤散布を示唆し、治療法まで推奨していた。ようやく全員が腑に落ちた。
— 白石 淳, 救急医 / Shiraishi Atsushi, MD, PhD (@shiraishia_md) March 19, 2025
松本サリン事件を経験した信州大学医学部附属病院の先生方が、ニュースを見て気付き、都内の多くの病院に急遽ファックスを送ってくれたとか。これで助かった人もきっといるだろう。
— 白石 淳, 救急医 / Shiraishi Atsushi, MD, PhD (@shiraishia_md) March 19, 2025
テロや災害への対応は何よりも情報である。
最初は爆弾が爆発、なんで情報もありました。ただ、どうやらサリンらしい、と聞いた時、瞬時に思い浮かんだのはあのカルト団体の名。
— 谷梅之助 (@umenosuke_tani) March 20, 2025
病院で一緒にニュースを見た脳外科の先生が、開口一番「オウムかな?」って言ってました。鋭い。自分は鈍くて思いつかなかった、、、
— 白石 淳, 救急医 / Shiraishi Atsushi, MD, PhD (@shiraishia_md) March 20, 2025
当時は救急科からは離れておりましたが、現場の混乱は目にして他科も可能な範囲で軽症者のケアをしていました。その中には、搬送患者に直接接触し体調崩した看護師もいました。後日海外で起きた化学工場の事故のニュースで、救急センターに除染ルームあるのを知り、救急科の部長と話したことがあります
— 葉 (@planetBah11) March 20, 2025
地下鉄サリン事件の搬送患者に聖路加国際病院で医療従事者が対応していた写真が残されています。患者には除染はなされず服を着ています。医療従事者は個人防護具なしです。彼らの活躍は語り継がれるべきですが、除染と個人防護具が最初にあるべきという教訓を残した事件でもありました。 pic.twitter.com/jI8dN1Zxbx
— 白石 淳, 救急医 / Shiraishi Atsushi, MD, PhD (@shiraishia_md) March 20, 2025
あの日はバイク便会社にいて、朝礼後にバイクで新大橋通りをお得意様の会社に向かってたんですが、日比谷線八丁堀駅に救急車や消防車が多く止まっていて、ブルーシートなどに人が横になったりうずくまってましたね…何が起きたのかを警察官な訊いても、よく分からないと言われました。
— チョビ之助💉×8🦖🦕No.5287 (@Cyobinosuke1st) March 20, 2025
初動での情報収集と対応の事前訓練と計画は極めて重要です。当時は情報収集が不十分で「よく分からない」ために二次被害が生じたかもしれません。現在では整備され訓練されてきています。
— 白石 淳, 救急医 / Shiraishi Atsushi, MD, PhD (@shiraishia_md) March 20, 2025
大都市の中心で化学兵器が散布されるという未曾有のテロなので、無理なからぬことですが。
あの日いつもの様に駅まで行ったらJRに振替えて下さいって言われて何だよぉ〜って思いながら出社したら大変な事になってたんだよねぇ😱まだ携帯も普及してなくって連絡取りたい家族も皆んなパニックになってた。助けられた命大事にしないと
— misa (@MisaKokubo) March 20, 2025
たしか遠方から足りない薬の新幹線リレーが行われたとか…
— えりか@PPMPPP (@erika_erika_220) March 20, 2025
帰宅後、NHKを見ていたら「乗車していた人は、服を捨ててください(大意)」と言っていたのが、印象的だった
— 荒川光線(B面) (@arakawakohsen_B) March 20, 2025
聖路加国際病院の日野原先生が新病院設計の時に院内のチャペルにまで酸素の配管を命じ、当時は無駄遣いと揶揄されたけどこの事件でチャペルが緊急処置室になり日野原先生の先見の明が生きたと聞きました。
— そらぱぱ (@GoGo_Spulse) March 20, 2025
数年前に聖路加に行った時にチャペルを覗いて、感慨深くなったのを覚えています。
現場はパニック状態で凄まじかったと想像しますが、そのFAXに気がついたのも凄いことだと思います。
— Aeria (@Aeriacube_f) March 20, 2025
電車で通う私立の女子校だったので、なんか混乱してたのは覚えてます。当時中学生。
— のみ suzuki nzomi (@NzomiSuzuki) March 20, 2025
学校は都内でも都心ではないから生徒は巻き込まれなかったけど、親御さんにはそちらに通勤の方が多かったから、心配する子がたくさんいた
あの日はテレビの緊急特番に釘付けになっていました。
— さんちゃん (@Sann_no_ji) March 20, 2025
インタビューに答える比較的軽微な症状の方が「今って明るいんですよね…何か暗く見えるんだけど」って顔をしかめてて、“あ、松本の事件と同じじゃん…”と感じたことを覚えています。
あの日、順天堂大学に入院していました。術後4日、まだベットに起き上がれない状態の中、けたたましいサイレンが。
— ばあばちゃん (@9ZkFhjHkOrgBHGa) March 20, 2025
暫くして病棟から、車椅子、点滴を下げる器具が持ち出されました。それがサリン事件当日の病棟でした。
今の今までサリンは地下鉄で初めて使われたのだと思ってた。「松本サリン事件」は教祖の苗字から取った別名と思ってた…。
— いつも眠い (@asleep_everyday) March 20, 2025
子供だったからとはいえ今まで全然気付いてなかった…
茅場町勤務でした。最初は過激派の爆弾テロとか案内があって、駅そばの病院の前は野戦病院のようになっていました
— いなばさがみー緊急避難用 (@Bannai07Temp) March 20, 2025
日野原先生の後聖路加病院院長になった福井次矢氏は伊豆下田で小中の同級生でした。
— 鳥居慶司 (@2e2sSb5FjQ1Anwj) March 20, 2025
日野原先生は戦争の可能性を見越して廊下や礼拝堂にも酸素の配管してあったそうですね。