1:名無しさん




金閣の再建に当たっては、赤松俊秀によれば、世間からの意見は必ずしも木造での忠実な再現を望むものではなく、「鉄筋コンクリートで作ればよい、形だけは元通りに作れば二度と焼けないだろう」というものも見られたという。しかし文化財保護委員会や専門審議会の後押しにより、忠実な形での再建が実現することとなった[70]。

再建は、その後勃発した朝鮮戦争に伴う物価騰貴のために難航したが[71]、慈海が謝罪を兼ねて托鉢の行脚を行うことでも、資金を集めている。托鉢は事件の際に、新聞で様々なことを書き立てられた慈海への、世間の反感を減ずることにもなったという[72][注 8]。その後、再建資金の一部がまとまった1952年(昭和27年)3月22日に起工式が催され、3ヶ年計画で工事が始められた[16][72]。設計は明治時代の図面に従って、3月28日に着手され、5月1日に完了した[74]。

1955年(昭和30年)10月10日、落慶供養が営まれた[17][71]。鹿苑寺住職や檀家総代の熱心さ、京都府教育長文化財保護課による指導援助が功を奏したとされ、かかった費用は合計で2,825万4,200円だった[71][注 9]。

再建された金閣は、焼失前と全くの同一ではなく、建築から500年以上の間に改造された部分を旧に復すため、以下の変更が行われた[71]。

第一層北側の東端二間の出入口を除去し、壁に改める[注 10]。 第一層北側の縁から第二層へ上がる階段は、明治時代のものであるため除去する。 第二層の東・北・西の三方にあった縦格子窓を、すべて板壁に改める。 第二層南側の雨戸4枚を、吹き寄せ舞良戸4枚・明障子2枚に改める。 第二層の東室・仏間の間を復旧、仏間の腰掛を除去、舞良戸を従来の高さに改める。

その後、1987年(昭和62年)には、金箔がそれまでの5倍の厚さに張り替えられた[76]。また2010年(平成22年)時点で、鹿苑寺のパンフレットには、金閣が焼失した事件について、全く記されていない[77]。

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