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12件のコメント

「怯える明治日本人に皮肉を言った英国人、その皮肉を日本側が真に受けてしまった結果」のコメントページ

コメント
  • 1 名前:匿名 2025/06/23(月) ID:NTQxOTI0M

    この頃の日本人て今では想像もできないくらい自信に満ち溢れていたと思うよ。義和団の乱が1900年だからその数年前には眠れる獅子と恐れられていた清を打ち破り、気鋭の新興国として欧米列強に肩を並べていただろう。この数年後にはロシアも破るのだが、その頃から今度はこの「出来がよすぎる」新参者に欧米はかえって警戒心や嫉妬を深めてしまう結果となった。

  • 2 名前:匿名 2025/06/23(月) ID:NTQyMjI5M

    江戸時代の人の写真もけっこう残ってるけどなー

  • 3 名前:匿名 2025/06/23(月) ID:NDQ2MjQ0N

    近代日本の位相を高めた北京籠城事件


    1900年、中国では義和団と呼ばれる反乱
    各国公使と関係者は、義和団に追われて、急いで北京城に避難することになった。北京城の前に20万人の大軍(義和団と清軍)が威勢を振るっており、北京城には4000人が閉じ込められてしまった。
    4000人のほとんどが民間人で、軍人はわずか500人しかいなかった。
    このような絶望的な状況で、少数の籠城軍が、2ヶ月ほど北京城を死守することに成功した。
    この混乱の中には、「小さな男」が存在していた。
    冒頭の記述は、当時北京城で「小さな男」と一緒に戦い、彼を見守っていたイギリス人の「ジェームズ・シンプソン」(James Simpson)氏の日記の一部である。
    この「小さな男」というのは、「柴五郎」という日本軍中佐だった。

    11カ国の兵力417人(日本軍25人)が北京城に到着した。
    北京城の混乱と無秩序な雰囲気をおさめようとしたが、容易なことではなかった。
    初期対策会議当時、「柴五郎」中佐は無言で、主に他の人々の意見に耳を傾ける立場だった。時々「セシボン!」(「良いです!」)と呼応するだけだった。
    不安感が流れていた当時の雰囲気には似つかわしくなく、「柴五郎」は落ち着いてじっくりとしていて、常に自信に満ちている様子だった。
    いつの間にかこういった「柴五郎」の毅然とした姿に、他の人もまた徐々に心理的な安定感を見つけ始めた。
    イギリスの「シンプソン」(Simpson)氏が日記に書いたように、「この『小さな男』は、いつの間にか混乱を秩序に変えた」という雰囲気がそのまま造成されたし、かれらの落ち着きが北京籠城の成功に繋がった。

    このような中、いよいよ清軍と義和団の大軍が、一斉に攻撃しはじめた。
    この中で、当時の公使館の中で最も規模が大きかった英国公使館の建物の一部が破壊されてしまった。
    「柴五郎」中佐は急いで部下の「安藤」大尉など日本軍の兵力8人に英国公使館をサポートするよう命令を下して、兵力を派遣した。
    派遣された「安藤」大尉など日本軍の兵力8人は、イギリス公使館に押しかけてきた清軍20人を迎え打ち、全く退かず勇敢に戦って、迅速にかれらを片付けた。
    後発隊として押しかけてきた清軍は、日本軍のこのような姿に驚いて、逃げ帰ってしまった。
    公使館で日本軍の戦闘姿を目撃した「ピーター・フレミング」氏は日記にこう書いた。



    北京籠城の状況を記録した他の人の数々の記録を見ても、直接的または間接的な非難や批判の対象にされていないのは、唯一日本人だけである。
    併せて、当時避難していた各国の婦女子は、様々な困難に直面して落ち込んでいたが、彼女たち婦女子を慰労して、勇気を引き立てる役割を積極的に果たしていたのが日本軍の兵士たちだった。
    清軍と義和団が無慈悲な殺戮を行っていて、徐々に北京城へ近づいてくるなか、恐怖と不安を感じていた婦女子たちにとって、日本軍兵士たちは、常に笑顔を見せて安心させてくれ、時にユーモアを介して婦女子たちの顔に笑顔をもたらしてくれた。
    いつの間にか北京城では、各国の女性と子供たちは、日本軍のファンになっていた。
    1万6000人の援軍が北京に到着することになって、義和団の反乱は平定された。このうち半分が日本軍だった。

  • 4 名前:匿名 2025/06/23(月) ID:NDQ2MjQ0N

    2.
    北京籠城を終了した最後の各国会議の席上で、イギリス公使の「マクドナルド」は籠城を最終結論した後、このように付け加えた。

    そのときに日本が見せた「勇敢」と「信頼感」は、当時世界最強の同盟を誕生させる決定的な牽引車となった。
    劣った有色人種の国として分類されていた当時の日本が、当時世界最強のイギリスと同盟を結ぶきっかけとなったのである。
    イギリスは当時、誇りにあふれていて、「栄光の孤立」を標榜しており、何があっても他国と同盟を結ぶことを拒否していた。
    ロシアの勢力拡大を懸念していた当時のイギリスと日本の利害関係が一致したという側面もあるが、かといってイギリスが、信頼もできない国と同盟を締結するということなどありえないことだった。
    劣った有色人種国として分類されていた国(日本)なんて、言うまでもないことだったのだ。
    北京籠城の際に見せた信頼できる日本の姿について、イギリスの公使(マクドナルド)が本国に詳細な報告をあげて、これが当時の日本の地位を高める大きな助けとなったのである。

    「柴五郎」中佐はその後、北京籠城の功績で、米国と欧州の多くの国から勲章を受けた。
    イタリアのエマヌエル皇帝より「サンラザール三等勲章」、フランスの大統領より「金の鎖付きの金時計」、スペイン皇帝より「武功赤十字二等勲章」、ベルギー皇帝より「賞詞と武功勲章」、ロシアのニコライ二世より「アンナ二等勲章」などを受章した。
    「柴五郎」中佐は北京籠城での活躍で、当時国際的に知られるようになり、特にヨーロッパでは「コロネル(大佐)シバ」の愛称で呼ばれて最も有名な日本人となった。


    バンダービルド

  • 5 名前:匿名 2025/06/23(月) ID:NDEwMTI2M

    男は黙って三行以内でまとめろ
    ……………………民明書房『北京籠城事件 その真実』より

  • 6 名前:匿名 2025/06/23(月) ID:NDQyMDUwM

    肝心の写真が見れねー

  • 7 名前:匿名 2025/06/23(月) ID:ODQwMDQ3N

    うわ、見たかったなぁ

  • 8 名前:匿名 2025/06/23(月) ID:MjI5NjU4M

    これは……「捏造記事」ですね。

    なぜなら、写真はすでに江戸時代に日本人によって「写真機」も作られ、徳川慶喜など写真愛好家が人物写真・風景写真を撮影し、図鑑も発行されたほどです。

    「ほとがら」と呼ばれ、江戸・幕末の著名人の写真がかなり現存しています。
    有名な近藤勇の写真を撮影したのは、徳川慶喜自身です。

  • 9 名前:匿名 2025/06/24(火) ID:MjM5NjQzM

    この話は恐らく……中国人・韓国人辺りが作ったんじゃないですかね?

    「遅れた日本人」「白人に頭を下げる日本人」

    あの連中は、自国が未開な言い訳として……「我々は西洋人に屈しなかった」とか、やたらに自慢気に言いますからね。屈しなかったのは、実は日本人なんですが。

    よほどコンプレックスなんですかね(笑)

  • 10 名前:匿名 2025/06/24(火) ID:NDA4OTAwN

    *9
    屈さなかった林則徐を排除して媚びへつらってたんよなあ

  • 11 名前:匿名 2025/06/24(火) ID:ODQ5NTM3N

    この事件は「北京の55日」という映画にもなって、柴五郎中佐を演じたのが故・伊丹十三氏。
    史実通り、頼りになるクールな日本軍将校として描かれている。

  • 12 名前:匿名 2025/06/24(火) ID:NTM4NzczM

    これは、手をつないでる理由が謎だったので「こうだったのでは?」みたいに言われていることが、伝聞の結果事実として語られた例ですね…。

    理由は不明のままです。

・個人への誹謗中傷
・特定の民族に対する差別的表現
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