1:名無しさん




「桜の木の逸話」が初めて登場するのは、メーソン・ロック・ウィームズが著した『ジョージ・ワシントンの生涯と記憶すべき行い』第5版です。つまり、初版から第4版まではこの有名なエピソードは一切存在していませんでした。

ウィームズがこの伝記を執筆したのは、ワシントンの死後、19世紀初頭のこと。当時のアメリカは新しい国家として歩み出したばかりで、国民は独立戦争の英雄であり初代大統領となったワシントンに強い敬意を抱き、その人物像や徳行を知りたがっていました。多様な情報源が存在しない時代において、手軽に繰り返し読める「本」という媒体がどれほど人々に歓迎されたかは想像に難くありません。子供向けに書かれたにもかかわらず、この伝記がベストセラーになったのも自然な流れだったといえるでしょう。

ウィームズの作風は、流れるような文体で読みやすく、大衆に受け入れられる工夫が随所に見られました。ただしその一方で、史実との整合性は必ずしも重視されず、「主人公の名誉になるのであれば、どんな話を載せてもよい」と考えていたといわれています。実際、19世紀後半のアメリカで刊行された『アップルトンのアメリカ人名事典』(1889年)には、彼の執筆姿勢について「伝記の主人公たちの名誉になるならば、どんな話を載せても許されると信じていたことは確実だ」と記されています。また、ニューヨーク・タイムズも1997年7月4日付の記事で、ウィームズが「フランシス・マリオン(沼のキツネ)をアメリカのパンテオンに祀り上げ、さらにワシントンのための場を確保した」と皮肉を込めて評しています。

桜の木の逸話については、ウィームズ自身が「ワシントンの生家と深い交流のあった女性から聞いた話だ」と語ったという記録もあります。しかし、その真偽はおそらく推して知るべし――。今日では、このエピソードは史実というよりも、国民的英雄ワシントンの理想像をつくり上げるための創作として受け止められています。

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